(12)悲劇を繰り返す懸念 (12月21日朝刊総合6面)

「ノート」の根本的な動機


 『沖縄ノート』は今日まで版を重ねているが、その刊本について最初の版を改訂していないことに関して。


 渡嘉敷島について。赤松隊長命令説を否定する文献等が出たことを知っているか?(曽野綾子著『ある神話の背景』、赤松嘉次『私は自決を命令していない』) 知っています。読んでもいます。この陳述書のなかにもすでに赤松嘉次『私は自決を命令していない』を私が信頼しない理由は示してきました。曽野綾子著『ある神話の背景』で直接私の名があげられている部分への、私としての回答も示しました。この本の全体に向けては、私は太田良博氏ら沖縄の知識人たちの批判よりほかの、自分としての批判は持っておりません。その上で私は『沖縄ノート』の守備隊長と自決命令に関する部分、自決命令を前提に論評した部分を訂正する必要はない、と考えています。その理由を申します。


 私が「命令」という言葉を『沖縄ノート』で使用しているのは、次の部分です。

《 慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の

《 部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ 》

という命令に発するとされている。 》(六十九ページ)

《 あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》(二百十一〜二百十二ページ)


 私は、このように書きながら、「命令」という言葉を、渡嘉敷島の守備隊長が、本日**時に、集団自決せよ、と島民たちに告げる「命令書」を書いて渡した、あるいは島民たちの代表に向かって第三者の前で、同じ内容の「命令」を発した、という意味のレベルで、そう書いたのではありません。


 すでにのべてきましたが、私は日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備軍―そして、皇民教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。米軍の上陸と攻撃が島民たちの現実の問題として迫った時、このすでに島民たちにとって共通の、自分らのとるべき態度はほかにないとされていたことが、実行されたのです。それは日々、島民たちに向けて徹底されてきた、タテの構造におけるその命令が、現実のものとなった、ということです。すでに私の認識は示しましたが、日本国―日本陸軍―第三二軍―慶良間列島の守備隊という「タテの構造」の、「最後の時」における集団自決の実行は、すでに装置された時限爆弾としての「命令」でありました。それを無効にするという新しい命令をしなかった。そしてそのまま、島民たちを「最後の時」に向かわせた、というのこそ渡嘉敷島の旧守備隊長の決断であり、集団自決という行為を現実のものとしたのです。


 私が『沖縄ノート』で行っている批判の根本にある動機は、将来の日本人が、同じタテの構造に組み込まれて、沖縄戦での悲劇をもう一度繰り返すことにならないか、という懸念です。私は一九四五年の経験がありながら、日本人一般はこのタテの構造への弱さをよく克服していないのではないか、と惧れています。そこで、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という問いを繰り返す『沖縄ノート』を書いたのです。私は『沖縄ノート』を改訂しなければならない、と考えていません。