(11)罪責感ない守備隊長 (12月20日朝刊総合9面)

架空法廷 ドイツとは逆に


 『沖縄ノート』二百十三ページ三行目から十一行目は、次のように記されています。

《 おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷でのアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由を持つ。 》


 私が、この段落で書いていることは、一九四五年の渡嘉敷島で行われた、日本軍から強制されての島民の集団自決が、一九七〇年の日本の青年たちにとってしっかり受けとめられているのではない、それはむしろいまや日本の政治家から日本人一般を包みこむ大きい風潮ではないか、それをあらかじめ見きわめての、渡嘉敷島の旧守備隊長の、渡嘉敷島に渡ろうとする企てではなかったか、ということです。


 私は沖縄戦で行われた沖縄住民への日本軍の犯罪の典型的な例として、渡嘉敷島での集団自決の強制がある、と考えていました。それに対していかなる法的機関による裁判も行われていない以上(おなじことの、将来における再現をふせぐために、というのが私の考えの中心にありましたが)なんらかのかたちでの「沖縄法廷」が開かれるべきであった、と考えていました。そしてここでは、ひとつの「沖縄法廷」の架空のものを想像したのです。


 その架空法廷で、渡嘉敷島の元守備隊長がどのようなことを語るだろうか、ということを様ざまに考え、私は戦後の(一九七〇年現在の)「日本青年」と「ドイツ青年」の比較を設定しました。そして、私がそこにイスラエル法廷におけるアイヒマンの証言を(ハナ・アーレントの書物から)引用したのは、次の意図からです。


 アイヒマンは友人から「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」ということを聞きます。それを契機にかれはナチス・ドイツユダヤ人虐殺の犯罪を追及する捜索班から逃れることをやめ、逮捕されると、イスラエル法廷に対して(現実にはありえないことでしたが)自分を公衆の前で絞首するようにさえ提案しました。その理由としてかれはこういいます。「私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。」 一方で私は、「日本青年」にはこうした前の戦争に対する罪責感は一般的にないのではないか、と考えたのです。そしてやはり沖縄戦に対する罪の意識はない旧守備隊長が、「沖縄法廷」でその意見を申したてるとすると、どういう内容となるだろうか? 私はそれをグロテスクに感じる、と書いています。渡嘉敷島の集団自決の、日本軍の責任を現地で担うべき旧守備隊長をアイヒマンになぞらえ、「沖縄法廷」による公開処刑をまで言い出している、とする読み取りは、まったくあたっていません。戦争の責任の考え方について、アイヒマン渡嘉敷島の旧守備隊長との考え方は逆なのです。アイヒマンはドイツの青年が感じとっている「罪責の重荷」を取り除いてやるために自分で罪を引き受け、絞首によってそれを償おう、と考えたのです。渡嘉敷島の旧守備隊長にも、日本青年にも、罪の意識はないのです。その点を私は比較してグロテスクに感じる、と書いたのです。