(10)「最後の時」放置の責任 (12月19日朝刊総合4面)

逃れようのない結末に


 「日本本土の政治家が」で始まる段落は何を述べたものか? この段落の文章の構造を説明します。


 まず前の段落の、ひとりの人物(かれは渡嘉敷島の旧守備隊長で、この段落では当時「若い将校」であった「ひとりの日本人」と呼ばれています)が、一九四五年渡嘉敷島で、その指導下にある守備隊が島民に強制した集団自決について、事実に反する「記憶」を作りあげての「夢想」「幻想」を抱く、そしてそれを現実に置き換えることが可能だと考えて二十五年後の沖縄におもむく、という場面を私は書いています。


 いまやそれができる、それができるようなおりがきた、とこのひとりの日本人が考えて、沖縄に行く。それは「日本本土の政治家、民衆」もいまやそれが事実に反しているといいたてるようでない現在、「そのようなおりがきたのだ」とかれは考えている。その時(以下は、書き手である私の認識の表明です。そのまま引用します)

《 まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》

 

戦争犯罪者」とは誰のことか? 「若い将校」とは誰のことか? 渡嘉敷島の旧守備隊長のことです。


 「若い将校」たる自分の集団自決の命令とは、何か? その根拠は何か? 私は、すでにこの陳述書でのべていますが、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊というタテのつながりのなかで、しかもそれが現実に行われた現場で守備隊の最高責任を持っていた将校として、他に変わる者はいないこの島の守備隊長に、渡嘉敷島の集団自決の直接の責任があると考え、その根拠ものべています。渡嘉敷島の守備隊長は、私の認識を繰り返しますが、さきにいった、タテの構造の一員として、集団自決に責任があります。この集団自決が「最後の時」にはなされなければならないということは、島民に徹底されている(慶良間列島の日本軍が米軍に勝利し、沖縄戦が逆転することがある場合、この「最後の時」は「命令」ではなくなりますが)。そこで、渡嘉敷島の陣地脇に集合させられている島民が「最後の時」が来た、と考えた時、それに対して積極的に実行中止の命令を出しうるのは、現地の守備隊長のみでした。それを旧守備隊長はせず、その夜起こったことを知らなかったとたびたび主張しています。それは、いまのべた、現地の指揮官として「最後の時」だ、という島民の認識をそのままにしておいたことで、それまでに積み重ねられた「集団自決」への「命令」が、実際に受けとめられてきたままに実行されたことへの、まやかしの発言なのです。


 「渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったのか、およそ人間のなしうるものとは思えぬ決断」とは何か? 旧守備隊長は、集団自決のその当日まで、守備隊長として、すでに島民に行きわたっている、集団自決に向けて押しつめられている、かれらに共通の思いに対して、それをやってはならない、と命令する決断ができる立場にいる、島でただひとりの人間でした。かれはそれをせず、大きい悲劇が起こるままにしました。放っておけば「最後の時」として起こることをそのまま放置したことこそが、島民の側からいえば逃れようのない結末をもたらした、直接の責任者のひとつの決断であったのです。


 「再現の現場に立ちあっているのだ」とは? 戦後二十五年たって、一九四五年の渡嘉敷島での「ひとりの日本人」の心の働きが、そのまま本人によって再現されている(そうすることで一九四五年の罪が、罪でないものとして自他に受けとめ直されるように企てている)ということです。もし一九七〇年の旧守備隊長の訪沖が、あのように激しく批判されることがなかったとしたら、この企てはマンマと成功したでしょう。