(8)「罪」否定の自己欺瞞 (12月17日朝刊総合6面)

虚偽の物語 自ら意識せず


 「責任者」の内面について想像したものか?


 そのとおりです。そして私はこの「責任者」に、渡嘉敷島において軍の責任者としての自分が行ったことの「罪」についての認識がなかったはずはない、と考えます。それを自分の内面の思考の手続きにおいて、「罪」ではないものに置きかえた操作、それを私は「自己欺瞞」と呼びます。そしてそれで他人を納得させようとしている作業を「他者への瞞着の試み」と呼びました。


 「あまりに巨きい罪の巨塊」とは、集団自決の強制で、自分の権力のもとにある島民たちを死に至らしめることをした、そのいちいちの「罪」の総体をさしています。ひとつの家族の一家での自殺、殺し合いをもたらしたものとしての「罪」があります。その具体的な「罪」が、三百人を超える人々について、ひとつひとつ重ねられているのです。それを私は、「あまりに巨きい罪の巨塊」というのです。


 私の使った「あまりに巨きい罪の巨塊」という表現について、それをひとつの家族に死をもたらすという「罪」とは次元の異なった(神でない者には云々できない、といった)「罪」を指す、という読みとりをする人がいます。しかし、私は、渡嘉敷島で引き起こされた、一家族、一家族の悲惨な死という具体的な「罪」について、それらが渡嘉敷島でどれだけの大きい規模に積み重ねられたか、それを(神ではない)人間として考えようとして、この表現を用いたのです。


 「過去の事実の改変に力をつくす」とは、どういうことを指しているのか? 渡嘉敷島の元守備隊長が、この島で行われた集団自決が、日本軍の強制によって行われたのでない、という方向に向けて事実を改変するために行った発言は幾つもの報道によって私の知るところでした。とくに旧守備隊長の沖縄再訪にあたっての新聞紙上の幾つもの談話にそれは一貫してみられますが、その旅発ちに先だっての、『週刊新潮』(一九六八年四月六日号)での談話は、典型的です。旧守備隊長は、終始、集団自決が行われた夜、自分はそれを知らなかったと言い通します。「私はまったく知らなかった。おそらく気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。」この週刊誌で旧守備隊長は、伊江島から投降勧告に来た女子三名、男三名を処刑したことについて、「…私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、“捕虜になったものは死ぬべきだ”という意見でした。」といっています。またやはり投降勧告に来た二人の少年についてはこういっています。「そこで“あんたらは米軍の捕虜になったんだ。日本人なんだから捕虜として、自らを処置しなさい。それができなければ帰りなさい”といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。」この裁判を契機に、法廷の外と内でそれらの実態はさらにあきらかとなっています。


 「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」とは?


 ここで「かれ」は渡嘉敷島の集団自決の日本軍―第三二軍のタテの構造の先端で責任をもつ、守備隊長をさしていますが、かれが上にのべた事実改変の発言を行う一方、あらためて引用しますが、

《 誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起することを望まなくなった風潮のなかで 》、

いやそれは事実とは違う、という反論にさえぎられることなしに、通用するようになった、その現在時において、守備隊長は、それが自分たちの作り出した、虚偽の物語であることを意識しなくなりさえしているだろう、という意味です。私はかれのこの種の言動について新しい報道に接するたびに、その思いを深めました。