(5)多様なかたちの「命令」(12月14日朝刊総合6面)

構造的積み重ね 島民に浸透

 「この事件の責任者はいまなお」以下において、私は一九七〇年現在においてなお、渡嘉敷島の集団自決という事件をもたらした、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊という、責任のタテの構造の、最先端にあった守備隊長は、事件の被害者たちになにひとつあがなっていない、と書きました。そして、それに続けて、《この個人の行動の全体は、いま本土の日本人の綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね、と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう》と書いています。


 そこに私がこの一節で書こうとした考えの中心があります。


 「この事件の責任者」と私が書いているのは、一九四五年当時の慶良間列島の二人の守備隊長のことです。そして私がなぜ「この事件の責任者」の個人の名前をあげていないかに、私は自分の、渡嘉敷島座間味島の集団自決の責任はどこにあるか、誰にあるか、という考え方を示しました。すなわち、この島のそれぞれの守備隊長という、日本軍―第三二軍につらなる命令のタテの構造の一端、ということがもっとも重要なのです。


 もし、渡嘉敷島、あるいは座間味島で、そのどちらかの守備隊長が、日本軍―第三二軍の命令のタテの構造の最先端で、その命令に反逆し、集団自決を押しとどめる命令を発して、実際に働き、悲劇を回避していたとしたら、その時こそ守備隊長の個人名を前面に出すことが必要でした。


 『沖縄ノート』二百八ページ一行目から同ページ八行目までには、次のように記されています。

《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し(『鉄の暴風』三十三ページ、『秘録・沖縄戦記』山川泰邦著百四十八ページ)、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり(『鉄の暴風』三十八―三十九ページ、『秘録・沖縄戦記』百五十二ページ)、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。》


 ここで私が記述している事例のいちいちは、私が『沖縄ノート』を書き始める前から読み続けてきた、一九四五年の沖縄戦の生き残りの証言にもとづく書物に、すべて根ざしています。さきの引用の中に括弧に入れて本とそのページ数を記しました。この一節で私が「おりがきたら一度、渡嘉敷島へわたりたい」という言葉で代表させている発言と同じ意味の、旧守備隊長の言葉は、次のように繰り返されていました。たとえば、一九六八年四月六日号の「週刊新潮」の記事「戦記に告発された赤松大尉」です。一九七〇年三月の実際の沖縄訪問の際の「沖縄タイムス」「琉球新報」にも同種の発言があります。たとえば前者の単独インタヴィユー、そして後者の談話。「前からぜひ来沖したいと考えていたが、こんど渡嘉敷村から招かれたこともあって来沖した。」


 集団自決について「命令された」と私が括弧つきで書いているのは、これまでも明示してきた私の「命令」という言葉の意味づけ、それが日本軍― 第三二軍―そして慶良間列島の二つの島の守備軍というタテの構造によって、沖縄の住民たちに押しつけられたものであり、直接には二つの島に入って来た日本軍によって、多様なかたちでそれが口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された、その総体を指すということ、その構造的な日々の積み重ねが島民のなかに浸透していなければ、集団自決が、ついにその時が来たという島民の窮地での認識にいたり、それが実行されることはなかったこと、そのきっかけをなす「命令」の実行の時はいまだ、という伝達がどのようになされたのであれ(多くの語り伝えがありますが)、一片の命令書があるかないか、というレベルのものではないことを強調するためでした。私は、旧守備隊長がその沖縄訪問の時をずっと待っていたという、さまざまな発言をひとまとめにして、「おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい」と考えている、という表明に代表させています。週刊誌、新聞での例は上記に示しました。