(7)守備隊長 確実に責任 (12月16日朝刊総合7面)

別人の繰り返しありうる


 「慶良間の集団自決の責任者も」で始まる最初の段落は何を述べたものか?


 「慶良間の集団自決の責任者も」という、この段落を書き出した時、私にはここで『沖縄ノート』の執筆の時点、一九七〇年、渡嘉敷島を実際に訪れようとしている、当の渡嘉敷島において行われた集団自決の責任者を批判する、という思いがもっとも強くありました。この段落に始まって、私の考察は、渡嘉敷島の集団自決の責任者に焦点をおいて展開しています。


 集団自決の責任者は、私の考えでは、すでにのべたとおり、日本軍―沖縄にある第三二軍―慶良間の二つの島の守備隊という命令手続きのすべての段階において見出しうる者ですが、この批判の焦点はとくに渡嘉敷島の守備隊長を指しています。


 実名で記載しなかった点。それもすでにのべましたが、私の考察の中心の軸をなす責任論に立っています。私は沖縄戦における集団自決について書きながら、注意深く、守備隊長の個人の実名を記述しない、という原則をつらぬきました。


 守備隊長は、さきにのべた日本陸軍の命令系統の、最先端の責任者として、確実に責任を負っているのです。たとえば、第三二軍の、軍としての階級や専門において、守備隊の編成の際、A、B、Cという個人名を持つ将校のいずれもが、渡嘉敷島の守備隊長に選ばれる位置にあったとして、私はそれらのA、B、Cの人間的資質の差によって、現実に行われてしまった悲劇が違ったものになったのではないか、というようには考えないのです。


 もし、たとえば慶良間の二つの島の一方で、集団自決の決行の時が迫った時、ひとつの島の守備隊長が、かれの権限において、島民の内に広まっている集団自決をする企図を放棄するように、と命令し、部下の兵隊たちから島民にその命令を徹底させたとすれば、悲劇の避けられる可能性はおおいにあったでしょう。そして現実にそれがあったのだったら、私は全力をつくして、その守備隊長の人間的資質について調査し、個人的インタヴィユーも行って、当然にその個人名をあげたでしょう。


 しかし、現実に行われたことは、慶良間の二つの島での集団自決です。そしてそれぞれの島の守備隊長には、責任があります。そこで私はこの部分で、渡嘉敷島の旧守備隊長を批判しながらかれを個人名でなく、守備隊長という役職の名において呼んだのです。そして、集団自決以後の、とくに戦後においてのかれの責任の取り方(それらはともに、責任の回避の仕方ということになりましたが)を考える、という手法をとったのです。


 そのようにすることで、私は、日本の軍隊構造のなかでの一守備隊長の、一九四五年の沖縄戦で行ったことが、近い将来、まったく別の日本人によって繰り返されることがありうる、そしてそれを許容する方向に、日本の社会は進みつつあり、その意味において、日本人は、戦前、戦中の「このような日本人」から自分自身を作りかえてはいない、という私の認識を表現したのです。