(3)タテの軍構造に責任 (12月12日朝刊総合4面)

「集団自決」通し自己批判

 『沖縄ノート』全体の趣旨はどういうものか?

《 日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか 》

という、この本で幾度も繰り返されているフレーズは、その全体の趣旨において、どのような重要性を持っているか?

 『沖縄ノート』は、本土の戦後世代である私が、明治の日本近代化の始まりに重なる「琉球処分」によって、沖縄の人間が日本国の体制のなかに組み込まれてゆく、そして皇民化教育の徹底によってどのような民衆意識が作りあげられ、一九四五年の沖縄戦における悲劇にいたったか、を学んでゆく過程を報告した。それが第一の柱です。

 私は戦後日本の復興、発展が、講和条約の発効、独立の出発点から、沖縄を本土から切り離しアメリカ軍政のもとにおいて巨大基地とすることを根本の条件としたこと、それが沖縄にもたらした新しい受難について書くことを第二の柱としました。その実状を具体的な人間の経験をつうじて示すために、とくに私が「沖縄の戦後世代」と呼ぶ、自分と同世代の人々へのインタヴィユーを中心にすえています。私の見る限り、それを伝えている刊本はまだありませんでした。

 そのようにして長い新しい苦難のなかで、沖縄の施政権返還が(巨大基地はそこにおいたままで)達成するまでを、私は報告したのですが、その過程で私のうちにかたまってきた主題がありました。私は太平洋戦争以前の近代・現代史において、本土の日本人が沖縄に対して取ってきた差別的な態度、意識について資料を読みとく、ということをしてきたのでしたが、戦後においても、日本の独立と新しい憲法下において、その憲法から切り離されている沖縄の犠牲のもとに、本土の平和と繁栄が築きあげられてきたことに、本土の日本人は、それをよく認識していないのではないか、そしてそれは近代化以来、現代に続くこのような日本人としての特性を示していることなのではないか、と考え始めたのでした。

 そして、私がこのような日本人としての、もとより自分をふくむ現在と将来の日本人について、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と問いかけ、答えてゆこうとする努力が、この『沖縄ノート』の第三の柱をなすことになりました。

 この三本の柱にそくして『沖縄ノート』を書いてゆく上で、いま私がのべてきたような日本人としての自己批判のためのきっかけとして、もっとも明瞭な問題群を示していると私が考えたのが、慶良間列島における一九四五年の集団自決の事実です。私はそれを日本軍―第三二軍―そして慶良間列島の二つの守備隊へとつながるタテの構造に責任があるものとしてとらえました。私がこの『沖縄ノート』を書き続けている間に、二十五年後の日本本土と沖縄の、それぞれの民衆意識における、慶良間列島の集団自決の受けとめの、大きい裂け目を示すと思われるような出来事が続きました。

 それらに集中して考察を進めることで、私は『沖縄ノート』を書き続け、自分にとって「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いへの答は、自分にまだないということを書いて私は本を結びました。私はそれ以後も、沖縄と本土日本とについての、ここにのべたような問いかけを続けて、文章を書き続けることもしてきました。

 私が五十年間にわたって小説とエッセイ、評論を発表し続けてきたことは、経歴を記したくだりで申しましたが、いまその五十年を振りかえる機会をえて考えますことは、自分のエッセイ、評論が一九四五年の敗戦によって軍国主義体制から解き放たれた少年の、新しい憲法による民主主義、平和主義のレジームのなかで、どのように自己実現してきたか、それを語るものを中心としている。ということです。『沖縄ノート』はそれらすべての中心にあります。