(2)日本人の戦争責任問う (12月11日朝刊総合7面)

再度の「国家犯罪」を危ぐ

 さて、その『沖縄ノート』??章から、私は批判を書いていますが(二百八―二百九ページ)、まず、その二百八ページ十行目にある、自分が慶良間列島の関係者をたずねて直接にインタヴィユーをしていないことについて、一言述べておきます。私はこの本で、沖縄の戦後世代に対するインタヴィユーの結果を文章にしています。しかし、沖縄戦の最初の戦場の悲劇について、二つの島に行って生存者たちのインタヴィユーをすることはしていません。私は本土の若い小説家が、二つの島の生存者を訪ねて、その恐ろしい悲劇について質問する資格を持つか、またそれを実のある対話となしうるかに自信を持てませんでした。それより、沖縄のジャーナリストによる(牧港氏によれば一人ずつの、また時には座談会による)証言の記録を集成したものに頼ることが妥当と考えたからです。

《 僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようとは思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言葉である。一九七〇年春、ひとりの男が、二十五年にわたるおりがきたら、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであるか。かれの幻想は、どのような、日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか? 》

 この一節で私は自分が旧守備隊長にインタヴィユーしていないことをいい、そこで自分はかれの「個人的な資質」を「推測」しない、といっています。「推測」という言葉を私は『広辞苑』の定義「ある事柄に基づいておしはかること。」として考えますが、私はある事柄に基づいて、事実をおしはかり、決定するのではなく、あくまでもそのかわりに自分として「想像」したこととして書いているのです。

 そして、『沖縄ノート』の終章にあたるこの章を、その答えにあてています。とくに答えの要旨は二百十四―二百十五ページに書いています。

 私はこの守備隊長の個人としての名前をあげていませんが、それも上に書いている理由からです。私は渡嘉敷島の集団自決が、日本軍―第三二軍―渡嘉敷島の守備隊という構造の強制力によってもたらされた、と考えてきました。そこで、この守備隊長の個人としての名前は必要でありませんでした。この批判において私は戦後になってこの守備隊長が行ったこと、発言した言葉を検討しています。材料は新聞に公表にされていました。そこではじめて浮かび上がってきた個人としての資質を私は批判しています。私はそれを日本人一般の資質に重ねることに批判の焦点を置いています。それが『沖縄ノート』において、個人名をあげなかった理由です。もし具体的に今述べた部分を引用するならば、次のようです。

《 おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守備隊長のみにとどまらない。日本人の、実際に厖大な数の人間がまさにそうなのであり、何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がない、新世代の大群がそれにつきしたがおうとしているのである。(中略)この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取り除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。 》