(4)民衆の死 抵当に生 (12月13日朝刊総合10面)

酷たらしい現場から今に

 『沖縄ノート』六十九ページ十行目から七十ページ五行目までには、次のように記されています。

慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の

《 部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ 》

という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。》

 私がここに述べている中心は、一九四五年の沖縄戦から、この執筆の現在時である一九六九年に始まり一九七〇年に至るまで(そして『沖縄ノート』がなお出版され続けて同時代の読者を得ている、いま現在まで)、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という命題です。それを私は、「この血なまぐさい座間味村渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとった」、と資料にそくして論じています。しかし、この文脈において(また『沖縄ノート』の全体をつらぬく執筆動機に関わって)もっとも重要なのは、「それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである」という認識です。

 この一節において、私が上地一史著『沖縄戦史』を引用しているのは、次の理由からです。はじめ私は上記の『鉄の暴風』からの引用を考えていましたが、それだと(引用は三十四ページの九行目―十三行目)赤松氏の個人としての名前が二度出て来ます。そこで『沖縄戦史』の文章を引用しました。

 私は、上の二冊の書物を初めとする記録によって、集団自決の現実について知り、そこから出発して考え始めました。それが二つの島の住民たちによって、軍の命令、軍によって発せられた、抵抗しえない命令と受けとめられ、実行にうつされたことに疑いはない。それを沖縄戦の全体の文脈のなかで理解しようとするとどうなるか? 私はその方向で考え続け、私としての結論にいたりました。つまり私は慶良間列島の集団自決について、日本の近代化をつうじての皇民化教育が沖縄に浸透させていた国民思想、日本軍、第三二軍が県民に担わせていた「軍官民共生共死」の方針、列島の守備隊というタテの構造の強制力、そして米軍が島民に虐殺、強姦を加えるという、広く信じられた情報、俘虜となることへの禁忌の思想、それに加えて軍から島民に与えられた手榴弾とそれにともなう、さらに具体的な命令、そうしたものの積み重なりの上に、米軍の上陸、攻撃が直接のきっかけとなって、それまでの日々の準備が一挙に現実のものとなったのだ、という考えにいたって、それを書いたのです。

 「生き延びようとする本土からの日本人の軍隊」とは、本土防衛のための沖縄戦を戦いぬくために、なによりも日本軍が生き続けて戦うことを第一義とみなしている(その根本条件の上に、第三二軍の「軍官民共生共死」の方針がある)と私が考えていることを示しています。

 「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の命題」については、さきに私の考えを示しました。