史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー(6) 琉球新報(3)


週刊新潮の記事と、赤松元隊長の矛先になった戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の筆者の一人が反論し、これまで書かなかったという秘話も語る。赤松氏に行状についての新証言にもまして興味深いのは、戦後永きに渡って渡嘉敷村村長をつとめ、この報道の時もそうであり、2年後の慰霊祭に赤松氏を招いた玉井氏が、集団自決の時には島にいなかったという事実である。

弁明に怒る生存者

大尉の"報告"はうそ
"反省の色なく許せない"


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 戦後23年になって、急に「わたしは島民に集団自決をしいて、自ら戦わずして生き延びようとした卑きょう者ではない」と開き直った赤松大尉の戦闘報告に、当時渡嘉敷島で辛酸をなめた同島の生き残りたちは「これはどうしたことか」とその心境をはかりかねて当惑している。やっと悲惨な傷跡がいやされ、にくしみも角がとれて、平和な島として再出発しているときだけに、同氏の意外な発言は眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。


 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波倉)惟好さん(57)(那覇市 略)琉球運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。


 「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。

 米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。


 「彼は島民を斬ったことのは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。


 あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。


 結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。


 その他、赤松氏が弁明している「私刑」についても、ことごとく事実に反すると反論する。 「少年二人が自分で首をつって死んだとか、いろいろつくろっているが、これらも確かに赤松大尉の命令で処刑されたのです。


 いまさら戦争の傷跡をほじくるまい、と思っていましたが、相手に反省の色がなく、史実を曲げるような言動をしている以上、すべてをはっきりさせざるを得ません。これは戦記にも書かなかったのですが、実をいうと赤松大尉は捕虜になるまで一歩もごうから出ず食糧も独り占めして他の将兵たちは住民から食物をもらって自給生活をしていた。兵隊は住民に先がけて戦うものであるにもかかわらず、戦闘意欲は全くなく、わたしに面と向かって"オレは生き延びて大本営に戦況を報告する義務をおわされている"とはっきりいっていました。


 平和な世の中になったいまになって考えると軍人であろうと命を粗末にするべきではありませんが、しかし当時の状況の中で住民を殺し自らは隠れて生還するというのは総指揮官がとるべき態度だったでしょうか」と語る。この米田さんも、赤松大尉の命で手りゅう弾の引きがねを引いて自決しようとしたが不発になって捕虜になった一人である。


 当時の村長として、この残酷史が赤松氏の弁明によってぬり変えられることを警戒した米田さんは、近く週刊新潮に対しことの真相を投書、赤松氏の弁明を改めて告発するという。


 一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。

 
 このように当時の体験者たちが「全てを許そう、そして平和な島を築こう」と誓い合っているとき、こんどの赤松氏の出現で心を乱されたかたちだ。島民たちの立場にたてば、沈みかけた怒り、悲しみをゆり起こした事体が赤松氏の"第二の罪"になりはしないか。

琉球新報引用おわり)
 

これは資料だから、あまり感想は述べたくないが、ひとつだけ言わせていただけば、米田氏の意見は『ある神話の背景』では、これに較べてやけにトーンダウンしているように思えるがどうだろうか?  曽野綾子氏の批判の的になっているからだろうか? いったい、どちらの米田氏が本当の姿なのか? やはり、資料は結論を急がずに読み比べなければいけない。


史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー おわり