史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー(5)琉球新報(2)


週刊新潮で紹介された戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の復習のあとは、加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室での赤松元隊長インタビュー。「正しい歴史をつくりたい」とは、沖縄で書かれた戦記は間違っている、という断定なだけに挑戦的だ。沖縄地元紙の見出しには怒りが込められている。


加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室で記者のインタビューに答えて語る「渡嘉敷島集団自決の真相」は次のようなものだった

開き直る赤松元大尉

"命令しなかった"
正しい歴史」を作りたい


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―広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。


 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。


しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。


―集団自決は命令したのか。


 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。


 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。


―スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。


 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。


―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。


 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。


―戦記の発行を計画しているとか。


 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。


―現在の計画は


 わたくしの取った措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから。現在の感覚と尺度でははかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。しかし、命令でやり、任務であったことがすべて個人の責任となるような社会には戻りたくない。


対立する当事者が言ってることは、それぞれ単独で聞けばどちらも正しい。芥川龍之介羅生門の世界だ。


したがって現場を知らないわたしたちとしては、他の記録との照合や何よりも同一人の証言の変遷を辿って、その信頼性を検証するしかない。慌てず騒がず試みたいと思います。


琉球新報の特集は、戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」を書いた、集団自決体験者のインタビューへとつづく