史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー(4)琉球新報(1)


週刊新潮1968年4月6日号記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽大阪支局員を赤松氏宅に向かわせ、4月8日にフォローアップ記事を特集した。 それは、『渡嘉敷島の集団自決 "悪夢の惨事"二つの真相?』と題するもので、23年ぶりの「戦闘報告」を語った元戦隊長赤松氏と、「戦記」を書いた元村長古波倉氏、二人のインタビューを対峙させるものだった。

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先ずは、リードから

琉球新報1968年4月8日9面

渡嘉敷島の集団自決

"悪夢の惨事"二つの真相?


【関西支局】沖縄戦の最中、戦闘に巻き込まれていった住民の悲劇のうち、渡嘉敷島の集団自決、住民の斬殺は旧日本軍の手で行われたといわれているだけに、23年たったいまも恩讐を込めて語りつがれている。その「無知と暴虐をともなった悪夢のような悲劇」を命じたといわれる赤松嘉次氏(48)=当時渡嘉敷島駐屯海上てい身隊第3戦隊隊長=が兵庫県加古川市に住んでいた。「私はどう中傷されようとかまわないが死んだ戦友がかわいそうだ」という赤松氏は。このほど本誌記者とのインタビューに応じて「集団自決は命じたものではない。気の毒だと思うが私の取ったその他の処置はあの時点ではやむをえなかった」と語った。一方、この弁明に対し当時同島にいて暴虐ぶりを目の当たりに見た同島生き残りたちは「事実を曲げるのもはなはだしい。罪の意識にかられていると思ったら、なんということをいい出すのか」とカンカン。生存者の語る"二つの真相"は沖縄の戦記にどう書き加えられて行くのだろうか。


そして、次に週刊新潮で紹介された戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の復習――

盆地を血にそめ329人自決

恩讐の23年、戦記は偽りか


 「渡嘉敷島における戦争の様相」という記録がある。終戦当時渡嘉敷島の村長だった古波倉惟好さん、村役所経理員で防衛隊長をしていた屋比久孟祥さんの二人が渡嘉敷島での戦闘と住民の模様を書きつづったもので、その中で赤松大尉はひきょう者となり、住民を圧迫した張本人となっているが、当時二十五歳の赤松大尉は防衛隊、男女青年団員、婦人会員など二百四十余の協力で爆雷を積んだ舟艇百隻を海辺に並べ出撃を待った。ところが「赤松大尉は出撃の命を下さずごうの奥に退避し、戦闘意欲を全く失っていた」ばかりか「気が狂ったのか全舟艇の破壊を命じた」という。二十年三月二十六日未明のことである。


 さらに「あしゅらのごとき阿鼻叫喚の地獄」がくり広げられる。同二十八日午前米軍の上陸に危機を感じた住民が西山の軍陣地北方の盆地に集結した。「記録」によると集団自決のもようは次のようなむごたらしいものだ。


 「防衛隊員の持つ手榴弾(二個ずつ)二、三十人が集まり、瞬時にして老若男女の肉は四散し死にそこなったものは棍棒で頭を打ち合い、カミソリで自らのけい部を切り、すきで親しいものの頭をたたき割るなど世にも恐ろしい情景がくり広げられた」このとき三百二十九人が死んだ。手榴弾が不発で死を免れた住民が軍陣地へ押し寄せると、赤松隊長はごうの入り口に立ちはだかり「軍のごうに入ってはいけない。すみやかに軍陣地を去れ」と厳しくかまえ、住民をにらみつけた―という。記録には赤松隊長が"自決命令"を出したとは書いてないが、自決はしいられたもの―というふうにとれ、生存者の中にははっきり「命令だった」と断定するものもいる。


 また赤松大尉の部下は住民にスパイの容疑をかけ切り殺し「山をさまよい歩く古波倉樽を敵に通じるおそれありとして軍刀にかけ」あるいは米軍の要求で投降を勧告に来た伊江島の男女6人を斬殺した。少年二人も米軍に通じたとして首をつらせ、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安氏は「防衛隊員のくせに家族の元に帰ってばかりいた」ので斬首された。そして血のにじむような記録は「沖縄本島の降伏に遅れること1ヶ月。二十年八月二十三日、渡嘉敷島の戦闘はその幕を閉じた」と結んでいる。


 これまでこの記録や生存者の証言をもとに赤松大尉のことが数多く書かれてきた。そのたびに旧部下で生存者の人たちが抗議したが取り上げられず、赤松氏もあまり語らなかった。だが戦死者までひきょう者呼ばわりされるのは可愛想―と最新号の「週刊新潮」で意見をのべ、近くかつての同僚が手記などを持ち寄って「正しい戦史」を作る計画もある。


 加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室で記者のインタビューに答えて語る「渡嘉敷島集団自決の真相」は次のようなものだった