赤松『挺進隊』は果たして『特攻隊』だったのか?……(1)

沖縄慶良間列島渡嘉敷島に駐屯した部隊は、沖縄陸軍32軍直轄の船舶団隷下の海上挺進第三戦隊104名であり、それに付属する基地隊216名、そして朝鮮人軍夫約210名を下士官兵13名が統括する水上勤務隊であった。


海上挺進隊を特攻飛行隊のパイロット集団になぞらえれば、基地隊は飛行場守備隊であり、水上勤務隊は飛行場建設隊であった。これら540名余とさらに壮年島民を徴兵した防衛隊70名、これら全体の司令官が赤松嘉次大尉であった。


部隊の保持のために住民の命をないがしろにしたとして、あれほど島民の恨みをかった赤松元隊長も、近頃、秦郁彦氏らによれば、『名将』と称える声が出始めているという。その根拠のひとつに、持久戦のなかで無駄な死者を出さなかったことが挙げられているそうだ。


確かに、特攻を主任務としていた本隊、海上挺進第三戦隊104名の降伏時の生還者は83名。栄養失調、餓死などで21名の殉死者が出たことは痛ましいが、80%もの生還率は沖縄のどの日本軍部隊にもない、高い生還率である。生き残った赤松部隊隊員や赤松部隊と最後まで行動をともにし、共に生還した人たちの中には、赤松元隊長を誉める人がいても不思議ではない。


そう、赤松隊本体は特攻隊でありながら、第32軍が邁進した『玉砕戦』の大義にそむき、結果として『玉砕戦』を行わなかった。もしかすると、赤松嘉次隊長は軍国主義日本の中で、さしずめ当時ならば「赤い」隊長としてにらまれて当然の、まれにみる「人道主義隊長」だったのかもしれない。


そこで改めて、初歩的な疑問をおさらいしてみる。『挺進隊』とはなにか? 死を必ずの帰結とする特攻隊だったのか? 「必死」と「決死」との違いは何か? また、そもそも特攻隊とは何であったのか? 字義を紐解いてみた。

挺進隊(ていしんたい)


同じ発音でも、この挺進隊と挺身隊とがある。挺進はひとりぬきんでて進む。挺身は身を引き抜く、みずから衆に先立って進み出ると辞書にあるが、日本軍での使い方はもっと具体的で異なった内容となる。


とくに陸軍で挺進といえぼ、敵の第一線の奥深く進入して敵の動勢・兵力・進路を探り、チャソスあれば守備兵を倒して物資集積所・駅・橋を爆破する任務のことで、挺進隊とはそのグループである。


陸軍では、さらにこれを細分して厳密な意味をもたせている。少人数で敵状を探るのが斥候、自衛戦闘をしながら情報を集めるやや大きいのが偵察隊、それより広い範囲で戦略情報を集めるより大きなグループが捜索隊と変わってくる。捜索連隊ともなると、騎兵の馬のかわりに自動車や戦車を装備して威力債察を強行するようになる。


アメリ南北戦争の「クアソトレル歩騎兵ゲリラ隊」、第二次大戦の英軍のコマソド(COMANDO)、米軍のレンジャー(RANGER)部隊などがこの挺進隊なのだが、テレビ映画などではゲリラ隊とか特攻部隊とか安易に名づけている。


日本軍で大観模な挺進隊が活躍したのは日露戦争のときで、いずれも騎兵で編成され国民にもっとも知られたのは「建川挺進隊」であった。これは建川美次中尉の指揮する六騎の隊が満州沙河の決戦のとき、敵陣深く進入して動向を探ったもので、戦前、山中峯太郎が『敵中横断三百里』という冒険戦争小説で紹介して、いちやく国民的英雄となった。


だが、このように公表されなかったために知名度は低いが、より大規模で大活躍をしたのは「永沼挺進隊」である。永沼秀文騎兵第八連隊長の指揮する日本騎兵二個中隊とモンゴル騎兵二〇〇の部隊で、遼陽から長春まで往復二〇〇〇キロ、作戦日数七五日というスケールの大きなゲリラ偵察戦を展開し、最後の奉天会戦に大功績をたて総司令官の感状第一号となった。


日中戦争・太平洋戦争に入ると、この挺進隊は各戦線に出没して大活躍をしている。すでに騎兵は時代遅れとなり、歩兵が住民の姿、時には敵兵の姿に変装して中国奥地の米空軍基地の爆破や蒋介石総統暗殺作戦なども企てられた。


南方戦線では、ジャソグル内の少数斬り込み隊でニューギニアの「大高挺進隊」「猛虎挺進隊」などが暴れ回った。一方、「空の神兵」と呼ぼれた陸軍落下傘部隊は、その性格から挺進部隊・挺進連隊と呼ぼれて空からの奇襲作戦に活躍した。航空挺進から空挺隊の名もあり現在の自衛隊に受け継がれている。


もう一つの挺身は、民間用語で一身を犠牲にして国につくす市民ユニットである。こちらの挺身隊は気軽に使われて、工場に徴用された臨時工員の「○○工場挺身隊」、学生が学校を休みにして農作業でも手伝えば「学徒挺身隊」、女学生の「女子挺身隊」など、外見は日の丸鉢巻で勇ましいが、例外なく腹ペコであった。(陸)


(「日本軍隊用語集」寺田近雄より)

 

特攻隊(とっこうたい)


特別攻撃隊の略称で、別働隊・遊撃隊・挺進隊、とくに危険な任務に従う決死隊などと同じように、本隊から離れて別に攻撃する小部隊のことだが、"特別"の文字を頭につけたのには特別な意味合いがある。


一九四一(昭和十六)年一二月八日の開戦初日のハワイ真珠湾攻撃の戦果は、その一〇日後に大本営から発表されたが、航空部隊のはなやかな戦果につづいて、「同海戦において特殊潜航艇をもって編成せるわが特別攻撃隊は警戒厳重を極める真珠湾内に決死突入し味方航空部隊の猛攻と同時に敵主力を強襲あるいは単独攻撃し……」と秘密覆面部隊のあったことを公表した。したがって海軍の新造語で、使いはじめでもあった。


秘匿名を甲標的と称し、二本の魚雷を抱えた二人乗りの小型潜航艇を、港口まで背負って運んできた大型潜水艦が島外で待機し、回収帰還できる手順になっていて、決死隊ではあっても後の「回天」攻撃のように必死隊ではなかったのだが、その秘密の性格、用法の危険度、存在そのものの捨て身の壮烈さから特別の名が頭につけられた。実際に五隻の攻撃艇の全部が未帰還となり、指揮官の岩佐直治大尉ほか八人の戦死者は「九軍神」として太平洋戦争で初めての軍神になり、失神して捕まった酒巻和男少尉は開戦初日で捕虜第一号となった。


つづいて翌年四月、第二次特別攻撃隊の三隻がオーストラリアのシドニー軍港、二隻がアフリカ東岸マダガスカル島のディエゴ・スワレズ軍港に突入し戦果を挙げたが、このときも全艇が未帰還となった。


この第一次・第二次と次のガダルカナル島攻撃の第三次までは特別攻撃隊と呼ばれたが、戦線が北のアリューシャソから南のソロモソまで広がり、出撃艇も多くなり特攻隊の名は使わなくなった。次に日本海軍に特攻隊の名が現われてくるのは二年後の一九四四(昭和一九)年の秋、フィリピン海域である。


すべての航空兵力は不足し、まともな正攻法が不可能となってきた現地の海軍航空隊は爆弾を積んだ小型機で敵艦に体当たり撃沈する以外に方策はないと決断し、全員自発的な志願を条件にこの邪道ともいえる作戦に踏みきった。


この攻撃法の主役、第一航空艦隊司令長官の大西滝治郎中将は自責のため終戦の日に自刃した。


爆装体当たり攻撃は、すでに半年前にピアク島で陸軍飛行第五戦隊の高田勝重少佐指揮の二式複座戦闘機四機が米輸送戦団に体当たりしており、ルソン島でも有馬正文少将機がぶつかっているが、組織的大規模に実施して名を残したのが「神風特別攻撃隊」である。「しんぶう」が正しい読み方だが「かみかぜ」と呼ぼれ、今ではKAMIKAZE として世界的になった。


最初の神風特攻隊はセプ島で久野好孚中尉らの二機によって行なわれ、つづいて朝日隊・山桜隊・菊水隊・敷島隊などと次々と生まれ、これに引きずられて陸軍特別攻撃隊も生まれた。これには神風の冠詞は使われない。日時的には神風特別攻撃隊第一号は久野中尉だが、その四日後に発進した敷島隊の関行男大尉がはるかに有名になった。基地に報道班員がいて、ニュース映画になったからかもしれない。


戦線が硫黄島から沖縄へと北上し日本本土に近づいてくると、米軍に対するこのカミカゼ・アタックはより強烈になってくる。


沖縄戦での航空特攻は出撃機陸海軍合計一五三六機、撃沈破艦船二五四隻と記録され、米軍は一時停戦し避難を決意したほどであった※1。


この通常兵器に爆弾を積む爆装に加えて、兵器そのものが爆弾・砲弾となる新しい特攻兵器も次々と考案された。一人乗り潜水艇「回天」、爆装モーターポートの海軍の「震洋」、陸軍の「マルゆ艇」 ※2、爆撃機から発射する人間爆弾「桜花」などがつづいて実戦に参加した。隊名はいずれも特別攻撃隊となる。


敵の艦船が目標であったために特攻隊の主役はおもに海軍であったが、陸軍航空も海軍の指揮下に入って洋上出撃に参加した。


すでにフィリピンのバギオでは丹羽戦車隊が爆装戦車で敵戦車に体当たりし、本土空襲でも戦闘機が高射砲の届かないB29に体当たりして散っていったが、沖縄では義烈空挺隊が米軍飛行場に胴体着陸して全員戦死している。


本土決戦段階では、火砲が不足のため兵土が爆薬を背負って戦車に飛び込む肉迫攻撃や、潜水服を着て海底から上陸用舟艇に爆薬を突き上げる「伏竜」などの体当たりも考え出された。スローガソは「全軍特攻」から「一億総特攻」 ※3にエスカレートした。


開戦時には通常兵器も使い、生還方法も考えられており"必死"ではなかった特別攻撃隊が、体当たり戦法の代名詞にまでなったのも末期的な症状であった。


戦時中に日本国民を感動させた特攻精神も外国人の目には、「特攻隊精神のウラには日本人の性格の一大欠陥があり、科学技術性の欠乏を人間の感情と肉体とで補なおうとしたのが特攻隊であった」と冷たく映っている。


アメリカ兵は、人間の乗った体当たり専用爆弾を BAKA BOMB(バカ爆弾)と嘲笑した。戦後の闇市には「特攻くずれ」のチソピラが横行し、今でも無茶苦茶にとぼす乱暴な運転のタクシーを「神風タクシー」の名で呼んでいる。


最初の特別攻撃隊の九人の遺体は回収されず、今でも真珠湾軍港の潜水艦基地の埋め立て地の下に埋もれたまま忘れ去られているが、九軍神は地下で笑っているだろうか、それとも泣いているだろうか。
(共)(↓挺進隊・肉弾・回天)

(前掲書より)

※1 九州沖からの米機動部隊の南下を、米艦隊の撤退と大本営は報じた。しかし、南下して向かう先は沖縄であった。
※2 「マルれ」の誤植であろう
※3 「一億総特攻」のスローガンは、昭和20年正月の各社新聞一面を飾ったそうである。


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で話は渡嘉敷に戻るが、

部隊の中心である挺進戦隊の生還率が高く、「気高い特攻の成功を期していた」住民だけが、なぜ、米軍艦砲攻撃に追い詰められたとはいえ集団自決して犠牲にならなくてはいけなかったのか? なぜ、スパイ容疑で多くの住民が、部隊によって処刑されねばならなかったのか?


割り切れなくやり切れない思いが残る。