史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー(1) 週刊新潮(1)

2008/01/13 13:08
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/448964/


http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=990&file=w-shincyo19680406hyoushi.jpg
渡嘉敷島の第3挺進隊長であった赤松嘉次氏が、戦後再び国民の前に姿をあらわしたのは、今から40年も前の1968年の週刊新潮紙面であった。おそらく、大スクープであったに違いない。40年も前というと、1945年の沖縄戦のときから見れば、1905年の日露戦争ということになる。


これは、明らかに「歴史史料」である。
この週刊新潮記事から、赤松氏の名誉回復運動ははじまった。この記事中の「私は何も悪いことはしていない」、「近く渡嘉敷を訪問するこころづもりだ」という言葉が挑戦的と受け取られ、2年後、有名な「渡嘉敷島渡航阻止」の抗議行動を呼び込んだ。


その抗議行動のニュースと赤松氏の言動に触発されて、大江健三郎氏は「沖縄のノート」最終回を記述した。


また、その抗議行動のニュースを読んで、曽野綾子氏は赤松氏にひきつけられ「切りとられた時間」と「ある神話の背景」という、2編の渡嘉敷島集団自決をテーマとした作品を書いた。


そうしていま、大阪地裁で赤松嘉次氏の弟と、座間味島挺進隊長梅澤裕氏とを原告とし、大江健三郎氏を被告とする名誉毀損裁判が進行している。



いまから復刻しようとする週刊新潮記事は、こうした争いごとの端緒であり、論争事始、いわば日中戦争を起こした盧溝橋事件の謎の「発砲音」である。そしてこれは、「大東亜戦争」にまけた日本国民が日露戦争を回顧するが如き歴史的文献でもある。40年の経過といえば、そのとき赤ちゃんとして誕生したとしても、早い女性なら「おばあちゃん」と呼ばれてしまう年月である。


紹介されている島の住民によって書かれた戦記、『渡嘉敷島における戦争の実相』は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも一部引用されているが、そこでは他の文献との文章の類似性を例示するだけで、書かれている事実を先ずは端正に読み取ろうという謙虚な姿勢はない。この週刊新潮記事は、大学に眠る『渡嘉敷島における戦争の実相』の記述内容を知る上でも、貴重な史料といえよう。


(たとえば、特攻艇『マルレ』を海に泛べる作業に防衛隊員など住民も参加していた、という事実は「ある神話の背景」にもない。玉砕した住民を見てないという赤松大尉の目には、何処にいても住民の姿は映らなかったようだ。曽野氏もそうした赤松氏の視野を踏襲している)



私にこのような歴史史料探索へと導いたのは、ほかならぬ大江・沖縄裁判の原告の人たちである。感謝申し上げます。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=990&file=w-shincyo19680406akamatu01.jpg

週刊新潮1968年4月8日号

戦記に告発された赤松大尉

〜沖縄渡嘉敷島処刑23年目の真相〜

 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。


 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。


 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた、島民自身の戦史である。


 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。


 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。


 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。


 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。


 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」


 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。


 "記録"は続く、


「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」

(つづく)

(つづく)