これって『偽証』?曽野綾子法廷証言・・・(3)

(1)http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/436549/ と
(2)http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/441936/ のつづきです。
富山真順証言についての補足と、あまりにもお粗末な否定論を紹介します。


富山真順証言とは、

渡嘉敷島の守備軍(赤松隊長)の兵器軍曹が、
1 米軍が上陸する前に
2 少年たちや役場吏員に非常呼集をかけて2個ずつの手榴弾を配布し
3 いざとなったら1個は米軍に投げつけ、1個は自決用に用いよと厳命した
というものです。

このことを、戦争当時村の兵事主任だった富山真順(旧姓新城)氏が証言したもので、1988年6月16日付朝日新聞夕刊で報道されましたが、富山氏はその20年余り前にも、島に取材にきた曽野綾子氏にも話をしたといってます。その証言は、次のようにハッキリしたものです。

曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、○洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」
(○洋子さんは実名:被告側第4回準備書面


1971年に発表された、曽野綾子氏が自分の論拠としている星雅彦著「集団自決を追って」(『潮』1971.11)においても、

「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」


と記されていて、「切りとられた時間」における記述と同様に、「攻撃用」と「自決用」の手榴弾2個配布が渡、嘉敷の常識になっていたことがわかります。


このように富山真順証言を否定できる根拠は何も無いのですが、


「軍強制」を否定したい人たちにとっては、この証言がよっぽど目の上のタン瘤なのか、難癖をつけて止みません。曰く、

兵事主任」とは大した職務じゃないから証言はあてにならない。

とか、

大した職務じゃないから曽野綾子氏は 「兵事主任」に会わなくて当然だ、

とかとかいうニューアンスの難癖。(例えば、http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061021/heiji )


兵事主任」は正に戦場となる村の「根こそぎ動員」の要となる職責で、軍隊経験をもつ有能な役場職員でなくては勤まりません。召集事務や動員手配、そして駐屯部隊長と密接な連絡をとります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E4%BA%8B%E4%B8%BB%E4%BB%BB


難癖をつけたがる人たちは、さらに、

榴弾を配ったという「俗に兵器軍曹」は、 「俗に兵器軍曹」で検索しても何もヒットしない
「「「俗に兵器軍曹と言われている」か否かが知りたいので、それに関しては何かありませんか。リンク先のテキストを「俗」で検索してもうまく引っかかりませんでした」

などと自分の不手際珍妙な検索作法も材料にして食い下がります。 じゃあ単純に「兵器軍曹」で検索してみたら??

 
日本陸軍の『中隊本部』には必ず「兵器係軍曹」がいたことは、軍隊体験者の手記にしっかりと書かれているのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ID1M-SSK/shiberia/yoshi04.htm
(「兵器軍曹」でヒットしたサイトです)

難癖というのはいくらでも垂れ流すことができるようです。
この二人の老教授も、トンデモな難癖です。


<新しい歴史をつくる会>会長の藤岡信勝氏は、統一協会新聞『世界日報』でこういってます。

第三に、信憑性に疑義のある資料の引用が認められた。東京書籍「日本史A」では、渡嘉敷島の集団自決について、「囲み」記事として次のような記述が承認された。
 日本軍はすでに三月二十日ごろには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の捕虜になる危険が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。


 これは、富山真順証言としてその真偽が争われているもので、専門家として意見聴取に応じた秦郁彦氏も、その意見書のなかで、3月20日は日本軍が米軍の慶良間来攻を予測していなかった ことなどを理由にして、資料としての信憑性に疑問を呈していたものである。この専門家の指摘を無視して記述を承認した日本史小委員会の見識が疑われる。


沖縄戦文献を殆ど読んでいないらしい秦郁彦氏が、専門家として意見聴取されるのも可笑しなことですが、

3月20日は日本軍が米軍の慶良間来攻を予測していなかった

だなんて言ってる事のほうが、よっぽど可笑しなものです。


事実はこうです。

渡嘉敷島に配備されたベニヤ製の特攻艇『マルレ』は、沖縄本島に上陸しようとする米軍の“裏をかいて背後から攻撃する”、そうした条件でなければ効果を発揮できない。慶良間来攻を(予測していなかったのではなく)想定しては成り立たない攻撃計画だった、


ということです。


慶良間来攻の方は、不運な“場合”として想定していてしかるべきです。


20年2月には、航空母艦を軸とする米機動部隊の出撃報で、「すわ沖縄来攻か」と沖縄全島に緊急配備が下令されました。その時は、米軍は硫黄島へ向かい、沖縄での戦闘はひとまず猶予されました。


3月の18日には、艦載機を満載した米機動部隊が九州近海まで北上し、関西、九州へ大規模な空襲。大本営は今度こそ沖縄上陸作戦の前触れと判断しました。海軍は20日には、虎の子の“最終兵器”である自爆ロケット『桜花』を、特攻出撃させその全てを失っています。


榴弾を配ったとされる3月20日頃といえば、そのぐらい状況は緊迫していました。すでに沖縄の沿岸部隊には、敵上陸に備えた警戒と非常戦備の発令がなされていたはずです。 17歳以上の防衛隊にはすでに手榴弾が配られてましたが、こうした状況の中で、それ以下の義勇隊少年にもさらに配られた、と考えてよいでしょう。(大本営や32軍司令部の緊迫はつづくエントリーで述べます)


また仮に、米軍が慶良間には見向きもしないで本島上陸を行うという、挺進隊にとってもっとも幸運な“場合”が進行したとしても、 特攻艇『マルレ』が出撃した後は、島に残る将兵と住民は米軍の襲撃を免れることはできません。死が必ずとなる『玉砕』局面は、とうぜん想定されるのです。


秦氏が言ってる事は、特攻艇が出撃することもなく、また米軍が上陸することも無い、という、『無戦闘』の可能性だけを述べた、きわめて滑稽なものとしかいいようがありません。


このような人物が、「専門の軍事史家」として教科書検定の「訂正」を左右したとすれば、「3月検定結果」と同様、ゆゆしきことと言わざるを得ません。