宮城晴美陳述書

大江氏を訴えた原告側の2大証拠の一つとされたが、著者宮城 晴美氏は、法廷でその意図を明確に否定しています。以下はその一部です。

前略

3 甲B5『母の遺したもの』(2000年12月)について

(1) 私がこの本(「本書」といいます)を出版したいきさつは、本書の「約束から10年―」(7〜10頁)に書いたとおりです。


母が原告の梅澤氏に送ったものとされている甲B32は、母が私に託す前のノートのコピーと思われますが、母は、『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)に収録された自分の手記「血ぬられた座間味島」と自筆のノートを開き、この二つのどこがどう違うのかを私に説明しました。そしてノートの「てにをは」の訂正や表記の変更、三者が読んで意味のわかりにくい箇所の補足訂正など、二人で話し合いながら、私がノートに赤ペンで書き込みをし、本書第一部に収録しました。それが「母・宮城初枝の手記」です。


母はかねてから、このノートを活字にしたいので、私に手伝ってほしいと話していました。手伝ってほしいというのは、先ほどの文章の添削だけでなく、「秘密基地」にされた島の状況や「集団自決」の歴史的背景、住民の悲惨な体験などを加筆することです。つまり母は、自分の手記はあくまでも個人的な体験であり、誤解を招きかねないと危惧していたのです。母がとくに気にしていたのは、「集団自決」が美化されていることでした。「お国」のために立派に死んだと表現されることに強く反発していたのです。


母の意向にしたがって、私は「母・宮城初枝の手記」を第一部とし、第二部(「集団自決」― 惨劇の光景)、第三部(海上特攻の秘密基地となって)を加えて本書を刊行しましたが、本書を執筆するにあたって、私はそれまで聞き取りを済ませた住民に再度戦時体験を確認し、また戦後生活の苦悩を含めた調査を改めて行いました。本書に記載した体験者の証言は、すべて私が直接聞き取ったものです。


また、あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです。この第四部は、終わりのない座間味島の「戦後」を書いたものといった方が良いのかもしれません。


(2) 部隊長命令についての手記の書き改めについて


本書の手記では、母は、『家の光』掲載の手記(乙19)や『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)掲載の手記に書いた「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」との記述を削除し、本書38〜40頁にあるように、3月25日夜に助役の宮里盛秀氏らに付いて梅澤部隊長のところに行ったときのことを書き加えました。

「老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」

との助役の申し出に対し、梅澤隊長はしばらく沈黙したのちに、沈痛な面持ちで

「今晩は一応お帰りください。お帰りください」


と、そのときは申し出に応じなかったもので、『家の光』(乙16)や下谷修久氏の本(乙6)に掲載した手記に書いたような梅澤部隊長の命令があったとはいえないというものです。


原告の梅澤氏は、3月25日夜の助役とのやりとりについて、

「決して自決するでない。生き延びて下さい」

と述べたと主張しているとのことですが、母は、1977年(昭和52年)3月26日の33回忌の日に私に経緯を告白して以来、本書に書いてあるとおり

「今晩は一応お帰りください。お帰りください」


と述べたと言っています。母は梅澤部隊長に申し訳ないという気持ちにかられて告白し、手記を書き改めたのですから、「決して自決するでない」と聞いたのなら、当然そのように私に話し、書いたはずです。


本書262頁に書きましたように、母は、1980年(昭和55年)12月中旬に那覇市のホテルのロビーで原告の梅澤氏に面会し、1945年(昭和20年)3月25日の夜の助役と梅澤氏とのやり取りについて詳しく話しましたが、梅澤氏は当夜の助役らとの面会そのものについて覚えていませんでした。「決して自決するでない」との梅澤氏の言い分は、記憶にないことを、自分の都合がいいように、あたかも鮮明に記憶しているかのように記述したものと思われます。もし記憶しておれば、梅澤氏はその時訪ねてきた助役・宮里盛秀氏の名前を、前述の「仕組まれた『詫び状』」(乙18)117頁で紹介しましたように「宮村盛秀」と、遺族の戦後改姓の苗字を書くはずはありません。


母は、少なくとも自分の目の前での部隊長の自決命令はなかったということでそのことを梅澤氏に告白し、手記を書き改めたのですが、確かに3月25日の助役とのやりとりの際に、梅澤部隊長は自決用の弾薬は渡していませんが、

「今晩は一応お帰りください。お帰りください」

といっただけで、自決をやめさせようとはしていません。住民が自決せざるをえないことを承知のうえで、ただ軍の貴重な武器である弾薬を梅澤氏自ら渡すことはしなかったというに過ぎなかったのではないかと思います。


後で述べるとおり、座間味島の日本軍は住民に対し、捕虜となることを禁止し、捕虜になった場合にいかに恐ろしいことになるかを教え込み、そして米軍上陸の暁には玉砕するよう訓示してきました。米軍の上陸が目前にせまったとき、自決用の手榴弾を渡すなどして、住民を自決するしかない状況に追いやったのは日本軍です。その最高指揮官が梅澤部隊長だったことを考えますと、これだけ大勢の住民が「集団自決」に追い込まれた事実は否定しようがなく、梅澤氏が自分には何ら責任がないのだと今日の行動に至ったことが、私にはむしろ疑問でなりません。

(3) 第3次家永教科書訴訟と母


母は、第3次家永教書訴訟を機会に自分の体験を含め沖縄戦をトータルで考えるようになりました。つまり、座間味島の「集団自決」の沖縄戦における位置づけについて自分なりに検証を始めました。ある日、母は新聞を切り抜きながら、

「国はいったい何を考えているのか」

「今度の裁判の証人である安仁屋先生がおっしゃるように、住民たちは自分で勝手に死んだのではない、国に殺されたのだ、日本兵による虐殺も“集団自決”も根はひとつであるのに、国側は(亡くなった人間の数の)バランスを問題にしている。こんな許せないことってあるか」


と怒っていました(「母は怒っています 教科書裁判をめぐって」(1988年2月19日沖縄タイムス夕刊 乙65)。


母の遺品から当時の家永裁判に関する新聞の切り抜きが多数出たことには驚きましたが、この裁判が母に自分の手記を活字にする決意をさせ、しかも娘の私に、自分の手記だけでは梅澤氏に責任がないような誤解を与えてはいけないからと、「集団自決」の歴史的背景や住民の惨劇を加筆して発行するよう指示したのだと思います。ちょうど梅澤氏が神戸新聞東京新聞に自らの“潔白”を訴えだしたことで、住民がいかにも勝手に死んだような書き方がされたため、母は

「梅澤命令を訂正したことで、軍の命令がなかったことになってはいけない。隊長が3月25日の夜に会ったときに直接命令を下していなくても、住民は軍からの命令だと信じたことは事実だ」


と話していました。そして母自身も、駐留した日本軍と一つ屋根の下で暮らすようになってからは、「鬼畜米英」に捕まると女は強姦されてから殺されると教えられましたし、一人の軍曹から「立派に死になさい」と手榴弾を渡されたことで、死ななければならないという気持ちに追い込まれたわけですので、軍の駐留があったからこそ「集団自決」は起こったと、身をもって体験した一人だったのです。

(4) 助役の指示について


本書第三部215頁以下の「『玉砕』観念に支配されて」の項で、

「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と、恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤部隊長からの命令だと思った。というのも、これまで、軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからである」

と書いたうえで、宮里盛秀助役について

「彼は村の助役として、三年余りにわたって『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた人物であった。追いつめられた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる」


と書きましたが、これが、母の手記の書き改め部分とともに悪用され、座間味島での「集団自決」について日本軍や梅澤部隊長に責任がないという主張の根拠とされたことについて、大変遺憾に思っております。

私は執筆の際、宮里盛秀氏が戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた人物であったとしても、座間味島の日本軍の指示や命令なしに勝手に住民を「玉砕」させることが可能であったのかどうか疑問がありましたので、盛秀氏の父・宮村盛永氏の「自叙伝」(乙28)から、

「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着替えて集合しなさい」


という盛秀氏の発言部分を同時に掲載しました。


本書を書くにあたって、盛秀氏の妹の宮平春子さんから当時のことについて聴き取りをし、本書(216頁以下)にも書きましたが、春子さんを自宅に訪ねた際、山道の清掃作業に出かけているとのことで、私も那覇に戻る船の時間的制約がありましたので、春子さんを作業現場に訪ね、話しを聴かせてもらいました。ただ、宮里家の家族構成や壕の位置などの基本的な説明で話しがやや長引いたため、一緒に作業している皆さんから早く終わるよう急かされ、春子さんに迷惑がかかってはいけないと、私の方からの質問を遠慮し、春子さんの話すままに聴き留めました。したがって、1945年(昭和20年)3月25日夜の盛永氏の「自叙伝」にある「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令がある…」というやりとりについては、春子さんから話を聞くことはできませんでした。


しかし、後述するように最近宮平春子さんからその陳述書(乙51)に書かれている話を聞くことができました。春子さんの話によって、盛秀氏が座間味島の日本軍から、

「米軍が上陸してきたら玉砕するように」


と命令されていたことがはっきりしました。


ただいずれにせよ、私自身の不用意な文章の書き方が、日本軍の被害者でもある盛秀氏をいかにも加害者のような誤解を与えたことに、深く反省しております。後述するように、日本軍は住民に捕虜となることを禁じ、米軍上陸の暁には玉砕するよう訓示をしていたのです。さらには、自決用の手榴弾まで渡されていた人たちもおり、住民は日本軍によって自決するしかないという状況に追い込まれていました。また、村の行政は梅澤部隊長が指揮する日本軍の完全な支配下にあり、助役・兵事主任・防衛隊長は軍からの住民に対する命令の伝達機関となっていました。つまり、宮里盛秀助役ら村の幹部は、あらかじめ座間味島の日本軍から、米軍上陸時には玉砕するよう指示・命令されていたもので、だからこそ、助役らは梅澤部隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったのであり、梅澤部隊長も自決をやめさせようとはしなかったものと考えられます。

後略

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/670.html
 

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