バンギ岬の白い十字架

沖縄戦でおきた「玉砕」という名の強制集団死。そして「防諜」目的による住民虐殺。
わたしは、沖縄以前の「玉砕戦」を辿ってみたら、その原型ともいえる記述をグァムの戦記の中から見つけた。


一等兵のM.T.さんが目撃した事件は、米軍のグアム上陸、昭和19年(1944年)7月21日のおよそ十日後ということである。(ちなみにサイパンでは米軍上陸が6月15日、米軍が"バンザイクリフ"に到達したのは7月1日)

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バンギ岬の白い十字架


米軍上陸以来十日間が過ぎ、八月に入ると日本兵にとって戦場は前線も後方もなかった。追いつめられた敗走の兵たちにとって、これ以上の恐怖感はない。グアム島の現地住民虐殺事件はこうした状況下で起きた。師団戦車隊付の歩兵であったM.T.さん(歩兵第三十八連隊・浜松市出身)は、その目撃者の一人である。Mさんの小隊はすでに全滅、生き残りはMさん一人であった。


ある夜、戦車隊は残った二台の戦車で夜襲をかけるという。M一等兵は戦車とともにジャングルを進んでいった。と、島民の集団が戦車の前に現れ、進むことができない。夜目で正確な数はわからないが、二百名は優にいた。その現地住民を前にするかたちで日本兵たちが軍刀や銃を突き付けている。虐殺……Mさんの危惧は現実のものとなった。日本兵たちは住民を数人ずつ一列に並べては一斉射撃を開始したのだ。それも「一尺くらいの至近距離から射つ」残虐なものだ。


「倒れた島民たちがウンウン言っている。これをまた銃剣で止どめを刺しているんだけど、暗いために急所に刺さらないで逃げ出す者もいる。後を追いかけて射つんだが当たらない。米軍の砲撃なんかで瞬間的に明るくなると、島民が手を合わせて拝んでいるのが見えるんです。むごいことをすると思ったけど、わし一人にゃどうすることもできんし…」


昭和十九年はじめ、グアムには約二万四千名の住民がいた。占領軍である日本人への感情が悪いのは当然である。そして米軍上陸後はジャングルの中からノロシを上げて日本軍の位置を米軍に知らせていたともいい、住民たちは米軍側に向かって避難しようと努力していた。


「住民を殺していた連中に、なぜだと聞くと、それ(米軍側への避難)を許すと日本軍の状況が筒抜けになってしまうから、それを"止めている"んだという。戦後問題になったと聞くが、そのとき逃げた人たちが告発したんだろうな」


敗走の中での住民虐殺は、帰還兵の証言を総合するとあちこちで行われた形跡がある。戦後、これら日本兵に殺された住民の慰霊碑が、西海岸のバンギ岬の近くに建てられた。その慰霊碑から数百メートル離れた山の中腹には、殺された人たちの墓が並んでいる。バンギ岬の上に立ち、右手の足下を見下ろすと真っ白い十字架の群れが見える。その墓地である。南洋の強い陽光に映えるこの十字架群は、異国情緒をたたえた一風景として、絶好のカメラ対象に見える。しかし、岬で土産の品々を売る住民たちは、なかなかわれわれ日本人には、その"歴史"を語ろうとはしない。(『玉砕戦全史』p123)

いま、『グァム 白い十字架』でgoogle検索すると、「南洋の強い陽光に映える十字架」の写真をみることができる。

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(グアム・ウェスティンホテルの教会 http://www.westin-guam.com/


しかしそれは、日本人向けホテルのウェディング演出の十字架であって、戦争の悲しい物語であろうはずがない。青い海を求めてやってくるホンドの観光客でしかない私たちに、沖縄渡嘉敷のみなさんもまた、なかなかその"歴史"を語ろうとしない。