8.ファルージャでのこと
続く章は「ファルージャが始まり」です。
a.デマの根元
(野木)
たいていのデマがそうであるように、今回の白燐弾騒動も大本は一つか二つの無責任な発言や記事でしかない。
どうやら白燐弾超兵器説を世界に流したのは、イタリアの大手テレビ局RAI(Radiotelevisionale Itariana S.P.A)だったようだ。RAIが二〇〇五年の一一月八日に放映した、イラク戦争のファルージャ攻防戦を扱ったドキュメンタリー番組 "La strage nascosta" (日本では「ファルージャ:隠された大虐殺」で知られる)がデマの元ネタだ。
まず、「無責任な発言や記事」「デマ」・・・というお言葉について。
野木さんは、「発言や記事」のどこがデマだか具体的に何も示さず、レッテルを貼っているだけのようです。それは昨日私が書いたとおりです。
報道記事の意味を、トリミングと逆さ引用して誹謗中傷した東堂一さんのJANJAN記事*1も酷いものですが*2、野木恵一さんのやり方も酷いものだといえましょう。
私は、情報に曖昧さや混乱があったとすれば、その根本原因はこの3つだと思います。
- 米軍が情報を完全にシャットアウトし、秘密のままに遂行した「第2次ファルージャ殲滅戦」
- 実態不明の大量殺戮
- 米軍当局の記者発表の「嘘と訂正」の繰り返し
そうした状況の中で、「ファルージャ:隠された大虐殺」が放映されたのです。
それは、闇に包まれた「ファルージャ殲滅戦」に対して打ち上げられた、1発の照明弾のようなものでした。この一灯の松明がなければ、民間人の犠牲者6000人を超えるともいわれる*3殲滅戦の全てが、闇から闇へと葬り去られていたことでしょう。
b.因縁のファルージャFalluja
ファルージャFallujaについて、6年前からの記憶を思い起こしてみます。
- 湾岸戦争で市場を空爆、約200人の死者
- 2003年3月19日イラク戦争勃発、米軍はイスラム教スンニ派、サダム元大統領の地盤であるファルージャに進駐
- 同4月ファルージャ市内で小学校を占拠する米軍に抗議するデモ隊に発砲、15人の死者
- 2004年3月31日、米軍事会社ブラックウォーター社員4人が惨殺される
- 同4月5日 海兵隊を中心とする米軍がファルージャを封鎖し第一次総攻撃
- 同5月1日 事実上の停戦協定米軍撤退(作戦は失敗とされる)
- その間、4月7日 イラク日本人人質事件 4月15日解放。
- 同5月27日、フリージャーナリスト、橋田信介、小川功太郎両氏、バクダッド公害で狙撃され死亡
- その後、米軍による断続的空爆
- 同11月2日、米国で大統領選挙。ブッシュ再選される。
- 同11月6日、米軍とイラク国家警備隊1万人がファルージャを包囲して封鎖。
- 同11月8日、第ニ次総攻撃開始。米軍はまず2つの橋と病院を急襲確保し、人命救助活動と情報を遮断。
- 同11月10日 国道10号に沿い連合軍は各部隊を一線に並べるように掃討作戦を継続
- 同11月14日 赤新月社の救援トラックがファルージャに入ろうとしたところ、米兵によって阻止
- 同11月19日 暫定政権ナキーブ内務相がファルージャの戦闘が終結したと発表
- 同11月25日 暫定政権はファルージャでの死者が2080名、拘束者が1600人以上と発表した。米軍の事前公表では、ファルージャ市内に残る人数は3000人から6000人。8日からこの日までに米軍は50人、イラク軍は8人が死亡した。
- 民間人の死者は6000人を越えるとされる。ファルージャへの出入りが自由になってから回収された死体は約700体で、その内504体が女性もしくは子供だったとされる。
※wikipedia「ファルージャ」及び「ファルージャの戦闘」などで復習しました。
第ニ次総攻撃で、真っ先に病院を急襲し人的被害の報道を徹底的に遮断したのは次のような事情からでした。
「4月11日からは空爆を中心とする大規模な攻撃を開始し、さらに多くの住民を殺害した。殺害された住民の数は600人とも千人以上とも言われる。殺害された住民のうち25%は女性で、25%は子供だったとも言われている。私立病院の院長ターリブ・アル=ジャナビーによると、米軍は、病院も、一般住民も、武装戦士達も、区別することなく攻撃したという。民家に武装勢力がいるという誤った情報によるピンポイント爆撃によって多くの民家が破壊された。ファルージャ市内にある70のモスクのうち39がこの戦闘で破壊された」
「ファッルージャ市内での惨状がマスメディアによって報道されると、イラク各地での反米運動の他、世界から非難が沸き起こり、作戦を中止せざるを得なかった。4月13日に米軍は停戦の上交渉を開始。」*4
今回のガザへの侵攻でも、イスラエルは徹底的に外国人記者を排除しました。やはりファルージャを教訓としていたのです。報道管制の中で世界の耳目を集めたのは、この白リン弾弾の報道でした。イスラエル軍がガザ市街地に白リン弾を浴びせたことは、イスラエル軍自らが、報道管制の風穴を開けてしまったといえましょう。
とくに、2009年1月15日の国連救援施設、国連学校への白リン弾攻撃は、大失敗といえましょう。
c.ファルージャでの白リン弾使用
2004年11月のファルージャ殲滅戦当時は、白リン弾の使用はあいまいなままでした。縫合の一部と人権派のサイトが伝えましたが、米軍は白リン弾使用を厳に否定してましたし、報道管制が引かれて世界のマスコミもほとんど報道できなかったからです。
報道はワシントンポストの記事の数行で、それがイラク人のブログによって伝えられたということです。
「Raed Jarrarのブログ」Wednesday, November 10, 2004
http://raedinthemiddle.blogspot.com/
http://raedinthemiddle.blogspot.com/2004_11_10_archive.html
(つづく)